
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第73巻
(1990年1月18日<平成2年>第二十五回本部幹部会・573頁)
「仏法の教義の問題であれば、堂々と議論をし、正邪を決していかねばならない。たとえば『大聖人の教義は誤っている』とか、『三大秘法は間違いだ』『大聖人の御書は論理的におかしい』といった批判に対しては、まっこうから反論し、はっきり勝負をつけていくべきである。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
教義といえば、任用試験も終了し、私と共に研鑽した二人は、無事に合格することができた。二人との勉強会で、テキストを読み、教えていて、いくつか気づいた点があった。
それは、日蓮仏法の肝心要の部分が曖昧に表現されたり、カットされていたこと。
以下、箇条書きに記す。
・開目抄の「人本尊開顕の書」という表記と、観心本尊抄の「法本尊開顕の書」という表記はなく、合わせて、「人法一箇」という言葉が見当たらないこと。
・発迹顕本が曖昧で何がどうなったのかよくわからない。昔は明確に「久遠元初の自受由報身如来」と定めていたのがなくなる。
・五重の相対が試験範囲にすら入っておらず、重要な「種脱相対」を教えられない。
・大聖人の出世の本懐が明確ではなくなり、熱原の信徒のような不惜身命の弟子が出てきた事という、具体性に乏しい内容で表現していること。
・「日顕宗を破す」の項目の肝心である、「時の貫主たりといえども、仏法に相違して己義を構えば、これを用いべからざること」という日興上人の遺誡置文を載せていないこと。
以上挙げた5点は、日蓮仏法で教えるべき、極めて重要な部分だ。
もちろん、任用試験は日蓮仏法の入口であり、限られた範囲で学ぶこと自体は理解できる。しかし、「初歩だから省略する」のと、「根幹となる教義そのものが曖昧になる」のとでは意味が異なる。
池田先生は、「仏法の教義の問題であれば、堂々と議論をし、正邪を決していかねばならない」と厳然と語られた。教義は信仰の土台であり、その土台が不明確になれば、信心もまた感覚的・情緒的なものへと傾きかねない。
とりわけ、「人法一箇」「発迹顕本」「種脱相対」「出世の本懐」「日興上人の遺誡置文」は、それぞれが独立した知識ではなく、一つの教義体系として互いに結び付いている。どれか一つが欠けても、日蓮大聖人の仏法を立体的に理解することは難しくなる。
教学は、知識を増やすためだけに学ぶものではない。正法正義を守り、広宣流布を進め、あらゆる誤りに対しても自信をもって語り抜くための力である。教義が曖昧であればあるほど、誤った理解や独善的な解釈を生みやすい。だからこそ、私はあえて書き記しておく。