
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第75巻
(1990年9月18日<平成2年>第三十三回本部幹部会・80頁)
「信心の眼からみれば、苦しみ、悩みも即、幸福であり、功徳なのである。功徳も、信心も、決して遠くにあるものではない。苦楽織りなす身近な現実の人生の中にあることを知っていただきたい。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
信心するということは、信心の眼で物事を見ていくことであり、磨いていくことでもある。信心が弱ければ、いつの間にか世法に流され、基準も、仏法ではなくなってしまう。
牧口先生は、「罰即利益」と言われた。透徹した信心の境地から見れば、罰や苦しみというのは、自身の信心を強めていく要因として昇華されていく。
一般的に考えるならば、悩みや苦しみというのは、功徳の反対としてとらえられるだろう。罰の現証なら猶更である。
しかし、仏法の眼から見れば、必ずしもそうではない。
苦しみそのものが、直ちに不幸を意味するわけではない。むしろ、その苦しみを通して、自分自身の生命を鍛え、信心を深め、境涯を開いていくならば、その苦しみは幸福へと転じていく。
だからこそ「罰即利益」なのである。
信心を実践すればするほど、自分の業との兼ね合いにより、様々なことが起きる。
生命を磨くのだから、今までの汚れが出るのは当然である。
自身を仏たらしめるための、「軌道修正」こそが、悩みや苦しみであり、罰という現証の本質なのである。
だからこそ、悩みや苦しみが、「感謝」に変わるまで祈り切ることが大切となる。
なぜなら、功徳とは感謝できることであり、「ありがたい」と思う心そのものだからだ。
もちろん、凡夫なのだから、苦しみや悩みに対して、はじめからありがたいと思うことは難しい。一度は、「なんでだよ」という葛藤にさらされ、呻吟することになる。そう思うこと自体は、決して信心が弱いからではない。凡夫である以上、苦しみに直面すれば、心が揺れ、弱音も出る。それは自然なことである。
重要なのは、その葛藤を抱えたままでも、祈りをやめないことである。
祈りながら苦しみ、苦しみながら祈る。
その繰り返しの中で、少しずつ自分の生命が変わっていく。そして、ある時振り返ってみると、「あの苦しみがあったからこそ、今の自分がある」と思える瞬間が訪れる。
そのとき、かつては「不幸」としか思えなかった出来事が、自分にとって大きな意味を持つものへと変わっている。
これが、苦しみが幸福へと転じるということなのではないだろうか。
「感謝」といっても、苦しみの最中に無理やり「ありがたい」と思い込むことではない。何でもかんでも感謝しましょうというのは嘘っぱち(無理)である。
本当に苦しいときに、「これは功徳だ」「ありがたいことだ」と無理に思い込もうとすれば、かえって自分の本当の感情を押し殺すことになる。
それでは、信心が現実から逃げるための方便になってしまう。
信心とは、自分の感情をごまかすことではない。
苦しみを苦しみとして十分に味わい、葛藤し、悩み、祈り、行動した末に、いつしか「あの経験があったからこそ、自分は変わることができた」と思えるようになる。
そのときに生まれる「ありがたい」という心こそ、本当の感謝なのではないだろうか。
表面的に「ありがたい」と言うだけなら簡単である。
しかし、生命の底から「ありがたかった」と思えるようになるには、それだけの苦難を乗り越えた自分自身の実感が必要になる。
だから、感謝には深さがある。
苦しみを知らない人の「ありがたい」と、苦しみのどん底から這い上がった人の「ありがたい」では、その言葉の重みが違う。
深い苦しみを経験したからこそ、人の苦しみにも寄り添えるようになる。
自分が傷ついた経験があるからこそ、他人の痛みにも気づけるようになる。
自分自身が悩み抜いたからこそ、誰かの悩みに対して、上から目線ではなく、同じ人間として向き合えるようになる。
そこまで生命が変わったとき、過去の苦しみは単なる「嫌な思い出」ではなくなる。
それは、自分の人生を深くしてくれた経験になる。
だからこそ、信心における「功徳」は、目に見える結果だけでは測れないのだと思う。
お金が増えた。願いがかなった。物事が自分の思い通りになった。
そうしたことだけが功徳なのではない。
苦しみに負けない自分になった。人間として以前より強くなった。他人の痛みが分かるようになった。簡単に人を責めなくなった。どんな状況でも希望を失わなくなった。そうした生命の変化もまた、大きな功徳である。
苦しみがあっても、それに負けない生命をつくる。
悩みがあっても、それを乗り越える力を身につける。
過去の傷さえも、人を思いやる力へと変えていく。
そのように、自分自身の生命を変革していくところに、信心の偉大さがある。