
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第69巻
(1987年8月23日<昭和62年>「8・24」記念大田区幹部総会・126頁)
「いかに信心しているようであっても、根底の一念が愚痴と文句であれば、諸天は守らない。福運も消えていく。人生も開けない。人も離れていく。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
愚痴と文句というのは凡夫の専売特許であり、避けがたい現象である。
愚痴と文句のないような人は、同じ人間とは思えないし、ある意味胡散臭さがある。
だが、それで終わってしまえば仏法の意味はなくなるし、ただの一般論になる。
「凡夫の正体は仏」
これが日蓮仏法の本質であり、仏法用語としては「十界互具」という。
愚痴や文句という凡夫の側面を仏へと転換する。
つまり
苦しみを題目に変え、文句を誓願に変え、批判を行動に変えるということである。
愚痴や文句が湧くこと自体が問題なのではない。
それを垂れ流すか、転換するか。
そこに信心の有無が、はっきりと分かれる。
愚痴を言いながら「仕方がない」と正当化するのは凡夫のままである。
愚痴を抱えたまま題目をあげ、行動に立ち上がるところに、仏法がある。
愚痴や文句という毒を変じて薬と為し、価値へと蘇らせる。
ここに、日蓮仏法のすごさがある。
凡夫であることに甘えるか、それとも凡夫であるがゆえに戦うか。
その選択の積み重ねが、人生を開くか、閉ざすかを決めていく。
諸天は仏を守護する。
自分自身の仏を顕現した分だけ、諸天も護る。
これが道理というものだ。
口では題目を唱え、心では愚痴と文句。行動は惰性、もしくは何もしない。
法華経を行じるといっても、身口意不相応では、仏の力用は発揮されない。
他人や環境がどうあれ、まずは自分自身の一念を観ていく。
そこを外して信心は語れない。
愚痴や文句のまま生きるか、転換して戦うか—すべては一念で決まる。