
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第73巻
(1990年1月8日<平成元年>第十九回全国青年部幹部会・528頁)
「実際に苦労している人、労働している人、その人をこそ大切にし、尊敬しなければならない。しかし社会の現実は、その反対であることがあまりにも多い。これまでの歴史もそうであった。その逆転のために、私は戦っている。また、そこに諸君の使命もある。(拍手)」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
創価学会で、誰が一番尊いのか。
それは、現場で、広宣流布を一歩一歩、地道に進めている無名の会員たちだ。
華やかな世界とは真逆の、まぎれもない庶民こそが、「創価の英雄」なのである。
創価学会の歴史を支えてきたのも、決して一部の有名な幹部や指導者だけではない。仕事や家庭に奮闘しながら、地域で友のために励ましの声をかけ、一人ひとりの幸福を祈り続けてきた無数の同志の存在があったからこそ、広宣流布は前進してきたのである。
池田先生は、そのような「実際に苦労している人」「労働している人」を最大に尊敬しなければならないと語られた。これは単なる同情ではない。社会を支え、人々の幸福を築きゆく真の力が、庶民の中にあることを見抜かれていたからである。
ゆえに私たちは、肩書や立場で人を判断してはならない。どれほど目立たなくとも、誰にも知られずとも、家族のため、友人のため、地域のために誠実に行動している人こそ尊い。その一歩一歩の積み重ねが、広宣流布の大河を形づくっているのである。
だが、現場で動いていても、そのことを実感することは難しいように思う。
励ましても反応がないこともある。訪問しても会えないこともある。真心を尽くしても、感謝されるとは限らない。むしろ誤解されたり、傷ついたりすることさえある。
そのため、自分の行動が本当に意味を持っているのか、不安になることもあるだろう。
広宣流布を現実に一歩進めることは、根気と生命力が必要だ。
どれだけ頑張っても、進んでいる感触がない時もあるし、況や少子化の波の中では、後退しているかのような無力感も湧いてくる。
結果だけ見てしまえば、進んでいるのかいないのか、一見わからないこともある。
しかし、広布の戦いというのは、大きな成果や派手な実績だけが価値なのではない。一人を励ましたこと、一人の幸福を祈ったこと、その真心の行動自体に尊い意義がある。
なぜなら仏法は、「因」と「縁」だからだ。
目に見える結果は、さまざまな条件が重なって現れる。しかし、自らが積み重ねた善き行動という「因」は、決して消えることがない。
今日の励ましが、すぐに相手の変化として現れなくてもよい。今は反応がなくても、その言葉が心のどこかに残り、何年後かに希望となることもある。一見すると何も変わっていないように見えても、人の生命の中では確実に何かが動いている場合がある。
だから仏法者は、結果に一喜一憂するのではなく、善き因を積み続けることを大切にするのである。
池田先生が尊敬されたのも、まさにそのような人たちだったのではないだろうか。華々しい成果を誇る人ではなく、誰に見られていなくとも、黙々と使命の場所で努力を続ける人である。
その人たちは、自分を英雄だとは思っていない。むしろ悩み、迷い、苦労しながら前へ進んでいる。しかし、その一歩こそが広宣流布を支えている。
歴史に名前が残るかどうかは問題ではない。仏法の眼から見れば、人々の幸福のために流した汗と涙、その真心の実践こそが最も尊い。
だから私は、広宣流布の主役とは、無名の庶民であると確信している。そして、その庶民を最大に尊敬する世界を築こうと戦い続けたのが池田先生であり、その精神を受け継ぐことこそ、私たちの使命なのだと思う。