
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第71巻
(1988年6月21日<昭和63年>第六回本部幹部会・193頁)
「”自分のほうが信心歴が古い””役職が違う”とか”立場が上である”といった考えにおちいるならば、そこにはもはや、みずみずしい求道心はない。これは、今までの退転者や反逆者に多く共通した姿だった。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
信心の年数や役職にこだわり始めたら危ない。
人は求道心を失うと、外面的な要素で信心を量るようになっていく。
組織で活動を長くすればするほど、所謂「組織信心」に毒される可能性が増し、それ自体が魔であることに気づかなくなる。
だからこそ常に、自分自身の信心の原点に立ち返ることが大切となる。
何のために信心しているか明確になっているか。
それが言語化できているか。
魔は曖昧さに付け込んでくる。
故に私の魔との闘争は、「徹底的な言語化」にある。
言語化できてはじめて、自分自身で「考えたこと」になる。
私は、10代の時が一番折伏に挑戦していた。
しかも純粋な気持ちで、心から折伏したいという一念だった。
だが、役職があがればあがるほど、組織の「戦い」という枠で、折伏を推進している自分に気づいた。
歓喜の折伏から成果の折伏へと陥る危険性というものを、肌身で感じることができた。
組織は諸刃の剣だ。信心の原点を忘れ、組織信心へと転落していくことは、中々自覚することはできない。
組織は本来、広宣流布という大目的を実現するための尊い器である。
しかし、その器に自分の心が支配されてしまったとき、手段が目的化し、信心の本質は見えにくくなる。
役職は使命であって、決して優劣や権威を示すものではない。
また、活動の成果も、本来は功徳や成長の「結果」であって、追い求めるべき「目的」ではない。
だからこそ私は、折伏においても活動においても、「この人に本当に幸せになってほしいのか」という一点に立ち返り続けなければならないと感じている。
10代の頃の自分は、知識も経験も乏しかったが、ただ純粋に、仏法のすばらしさを伝えたいという情熱だけはあった。
今振り返ると、その拙いほどの真剣さこそが、最も尊い信心の姿だったのかもしれない。
信心歴も、活動体験も、教学もまだまだ足りなかった10代の自分から、学ぶことが沢山ある。
若いから、経験がないからと侮ってはならない。
純粋な信心に敵うものなど何もない。
だから私は、年齢や役職、立場で人を見ない。
ただただ、純粋な信心の人を尊敬する。
そして、10代のあの頃の「純粋な信」に立ちかえるため、今日も進みゆく。