
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第71巻
(1988年7月19日<昭和63年>第二回神奈川県支部長会・280頁)
「すべての盾となり、厳然と守ってくれる師のいる間はよい。だが、師の亡きあと、いかに師の正義を守り、その理想を現実にしていくか―—これが、いつの時代にあっても、重要な課題となる。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
師が中心か、それとも師の「言葉」だけが中心か。
その分かれ目は、決定的に大きい。
師を中心に据えるとは、師の生命に流れる大目的、民衆救済の精神、広宣流布への責任を、自分の生き方として受け継ぐことだと思う。
一方で、師の「言葉」だけを中心にしてしまうと、都合のよい文言の切り取りや、権威づけのための引用に堕しやすい。すると、師の心を学ぶはずが、いつのまにか師を“利用する”姿にもなりかねない。
師の言葉が生きるのは、弟子が戦う時である。
逆に、弟子が戦わなくなれば、どれほど立派な言葉も、ただの飾りになってしまう。
この指導は、「師亡き後」における最大の戒めでもある。
すなわち、形式化、権威化、教条化への警鐘である。
師を失ったあと、人は安心のために“型”に逃げやすい。
しかし、それでは師の精神は残らない。
残るのは、外形だけである。
ここで言うところの型とは、本来は魂を込めて行うべき信心や実践が、いつしか「形だけ整っていればよい」ものになってしまう姿である。
創価学会の組織は大きく、形はすでに整っている。
毎月の座談会をはじめ、本部幹部会や総会等、結集すれば、それなりの数はそろう。
だがそこに、「魂」が込もっているかは別の話だ。
すでに出来上がったものを壊さないように、傷つけないように、今までの型通りに推進することは容易だ。
”伝統”という名のもとに、同じような内容を、同じメンバーで繰り返していくことは、広布推進ではなく、"運営”でしかない場合もある。
本来の広布推進というのは、逆流に逆らい、前進していく厳しさがある。
油断や手を抜くと流され、振出しに戻っていくどころか後退する。
進まざるは退転とはこのことだ。
「師の正義」を守るといっても、それは、広宣流布の確かなる前進の中にのみ存在する。
ゆえに、師を守るとは、師を語ることや言葉を紹介することではない。
師の心をわが心とし、師の理想を現実の前進として示していくことである。
師亡き後に試されるのは言葉ではなく、広布を進める実力である。
形式ではなく中身。
継承とは前進を意味する。
私もまた、語るだけの弟子ではなく、広布を進める弟子でありたい。
だから今日も、広宣流布を一歩、否、一ミリでも進めてまいりたい。