
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第70巻
(1988年4月22日<昭和63年>第四回本部幹部会・480頁)
「ともあれ『魔』を恐れずに、厳然と戦ってきたがゆえに、今日の発展と大功徳がある。これからは、幹部や青年部は、私がいるからという安易な考えであっては断じてならない。隆々たる発展を遂げる大仏法の前進のなかで、いつしか『謗法』や『魔』とどこまでも戦いぬく精神が、薄らいでいくようなことがあっては絶対にならないと申し上げたい。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
創価学会の中で、「謗法」という概念が曖昧になってきていると感じるのは、私だけだろうか。
根幹の教義は、「リセット」というワードでうやむやとなり、「対話」「多様性」のもと、他宗の僧侶とも話し合いが行われる。
「謗法と同座すべからず」はどこへやら、支援政党の議員は、寺や神社で参拝や講演は当たり前。このような光景を目にする度に、謗法は死語になったのかと錯覚させられる。
「謗法」という言葉は、本当に形骸化してしまったのか。それとも、私の理解と実践の次元が変わったのか。
かつては、外に明確な“敵”があった。教義上の対立も、社会的な圧迫も、目に見える形で存在していた。しかし現在はどうか。
聖教新聞を開いても、「謗法」という言葉を見かけることは、ほとんどないと言ってよい。
外部への配慮かもしれないが、「信仰の厳しさ」からはかけ離れている。
謗法への境界の曖昧さは、組織の“体温低下”につながってはいないか。
私は、そこに一抹の危惧を覚える。
もちろん時代は変わる。
社会との関係性も変わる。
宗教間対話も、政治との距離感も、かつてとは違う局面にある。
だが、だからこそ問われるのは外形ではなく、内実だ。
「謗法と戦う」とは何か。また、「魔」と戦うとは何か。
池田先生は「自分に頼るな」と警鐘されている。
「池田先生がいるから大丈夫」という安直な考えこそが”魔”ではないか。
冷静に考えれば、魔が吹き荒れる仏意仏勅の団体が、勝手に守られるはずがないのだ。
魔の正体(あくまでも一側面)は油断であり、学会員ならば「創価学会は仏意仏勅だから間違えないし大丈夫」という思い込み。
もしも大丈夫であるならば、池田先生は、組織や幹部に厳しい指導はしないで済む。
また、謗法行為の現証を現代的に簡潔に表現(あくまでも一側面)すると、「うまくいかなくなる」だ。
謗法行為が、「無間地獄」や「阿鼻地獄」に堕ちるといっても、それが観念論になってしまえば価値がない、と私は考える。
何が謗法かはここでは問わない。
謗法とは自分では気づかない、気づきにくいから恐ろしい。
謗法があるかないかを論じる前に、自分は惰性と戦っているか。
安易さと戦っているか。
正義を語る勇気を失っていないか。
謗法は、遠くにあるのではない。
気づかぬ油断として、最も身近に潜んでいる。