
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第71巻
(1988年5月28日<昭和63年>第四回全国青年部幹部会・73頁)
「指導的立場にある中心者の狂いは、その人についている多くの人々をも迷わせてしまう。これ以上の不幸はない。たとえ、本人に罪はなくとも、信心の濁った中心者につけば、その人たちの信心も濁流に染まっていってしまう。それほど仏法は厳しく、信心は厳格に見なくてはならない。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
人も組織も、信心を濁らせないために、創価三代の指導を根本にしていくことが大事だ。就中、池田門下は、池田先生の指導を中心に据えていくことが、狂いを生じさせない道だ。
問題になるのは、創価三代を「形」だけ中心に据えるのか、それとも「精神」を据えるのかだ。
仏法は心だ。
言っていることと、やっていることが一致しているか。
ここは厳しく問われる。
どれほど立派な言葉を並べても、行動が伴わなければ意味はない。
むしろ、そのズレこそが、信心を濁らせる原因になってしまう。
形だけ据えると起きることは、創価の師弟がただの団結の象徴でしかなくなること。
「先生にお応えしよう」という言葉だけが響き空回りする。
師弟の押し付けでは、一人一人の力は発揮されない。
では、精神を据えるとどうなるか。
まず、師弟が「言葉」ではなく「生き方」になる。
師匠の名を掲げることよりも、師匠の精神をどう自分の行動に表すかが中心になる。
すると自然に、「先生はこう言われた」だけで終わらず、「自分はどう生きるか」という問いが生まれる。
ここに信心の主体性が生まれる。
仏法は、誰かに動かされる信仰ではない。
自ら祈り、自ら考え、自ら行動する中で深まっていくものだ。
だから精神が根本になると、中心者に依存するのではなく、一人一人が自分の信心で立つようになる。
自分の信を拠り所にして立ち上がる。
これが、創価の師弟の「精神」の継承だ。
だから私は、指導を血肉にする努力を続ける。
自分自身で考え、言語化していく。
自身の信心を濁らせないために、多くの人を迷わせないために。