
以下に池田先生の指導を引用する。
『池田大作全集』第70巻
(1988年3月28日<昭和63年>中部記念幹部会・368頁)
「私は、約十年間、戸田先生のもとで働き、お仕えした。その間、健康上の理由等で二度か三度遅刻した。当時は草創期でもあり、会合も、帰宅も、今より遅くなることが多かった。だが、戸田先生は、学会活動を理由に遅刻することは決して認めなかった。『それは信心利用である』と一喝された。」
以下は、上記の指導を踏まえた、私自身の受け止めである。
自覚なき「信心利用」は、以外と多いように感じる。
例えば、「学会活動を重視し、家族をおざなりにする」、「信心と学業との両立という名の手抜き」、「信心していれば、問題と向き合わずとも、解決するという淡い思考」等。
これらの共通点は、甘えと道理に反する思考、生き方だ。
家庭を大切にすること。
仕事や学業に真剣に取り組むこと。
問題から逃げず、原因を直視すること。
これらを疎かにして「信心しているから、活動しているから大丈夫」と思うなら、それは信心を高めているのではなく、信心の名を借りて自分を正当化しているにすぎない。信心とは、自分を甘やかす道具ではなく、自分を律する鏡である。
ではなぜ、気づかぬうちに信心利用へと転落してしまうのか。
それは、信心とはもともと、「自分ではどうにもならない問題の解決」、つまり、「宿命の転換」に、重きを置いているところにあるのではないだろうか。
宿命を転換しない限り、策で解決しても、また同じ問題・課題に直面する。
そうすると、根本治の信心に傾き、現実と向き合い、手を打つことが疎かになる。
そういった傾向がないだろうか。
確かに、信心は「宿命転換」という根本解決を説く。
だからこそ私たちは、祈り、題目をあげ、生命の変革を目指す。
祈っているから大丈夫。
題目を唱えているから、時が解決する。
宿命が変われば自然と整う。
そう思った瞬間、現実の一手を打つ責任から、ほんの少し距離を取ってしまう危うさがある。
宿命転換とは、「祈って待つこと」ではない。
祈って、考え、学び、謝り、動き、改善し続けることだ。
祈りは方向を定める。行動は現実を動かす。
どちらか一方では足りない。
もし、祈りによって「やるべき一歩」が見えたのに、それを打たないなら、それこそが信心利用の入り口なのかもしれない。