
2026年2月19日(木)付けの聖教新聞の1面と3面に、男子部の「組織機構を段階的に改革」「改革に至った経緯」について掲載されていたので、雑記として記す。
本年男子部は、組織改革を行う旨を正式に発表された。
主な内容を、私の理解の範囲で簡単に箇条書きで説明すると3点あげられる。
・創価班・牙城会がなくなり、新たな人材グループを発足。
・本部幹部以上の役職者を、現場のリーダーと兼務。
・未来部の担当者を正役職者ではなく、副役職者や若いメンバーで対応する。
何と言っても目玉の改革は、創価班と牙城会がなくなることだろう。
この決断に至るまで、相当悩み、苦渋の判断であったことは、3面記事の「リーダーが語る」を読めばわかる。
思えば池田先生も、十数年前に「機械を導入してもいいんだよ」という言葉を残されていた。それだけ、月々日々の「任務」を遂行するのは大変だったのだ。
着任者を揃えるのも一苦労。
ここに、膨大なエネルギーが費やされていた事実を私は知っている。
両人材グループは、内容的には「仕事」に近いものを感じた。
訓練・志願兵と言う名の、すべてを「自責」にする体質もあった。
時代に合わないと言えば時代に合わない。
組織を運営する能力や、会員を守るという精神は身についていくが、肝心の広宣流布が進んでいるかといえば、進んでいるとは言えない。
そういったジレンマをずっと抱えていた人材グループだったように思う。
一言で言えば、「制度疲労」。
それが消滅の原因と思っている。
兼務と未来部体制の改革については、単純に人手不足・人材不足からきている。
一人ひとりの時間とエネルギーは有限だ。
一回の打ち出しも、せいぜい三つまでが鉄則だ。
「組織を回すだけで精一杯」では、実質的に、広宣流布を進めることはできない。
では、この改革は「後退」なのか。
私は、むしろ原点回帰だと感じている。
かつての男子部は、役職や任務のために存在していたのではない。
一人の友のために祈り、語り、動く。
その積み重ねが組織だった。
しかし、いつの間にか、任務を埋めること、体制を維持すること、事故を起こさないこと。そこにエネルギーが奪われていった側面は否めない。
制度は、人を守るためにある。
だが制度が肥大化すると、人が制度を守るようになる。
この逆転が起きたとき、「制度疲労」は始まる。
今回の決断は、その構造を一度壊すということだろう。
それは勇気がいる。
結果的に失敗するかもしれないし、組織も弱体化する可能性もある。
先代達の想いを踏みにじってしまうことになるやもしれない。
それでも青年たちが、苦悩と熟慮が伴う決断を下したことに対し、ケチをつけようとは思わない。
成功も失敗もすべて背負い、戦いを起こすのが青年というものだからだ。
そして、一番恐ろしいのは、苦悩も熟慮も配慮もない、自分たち本位の「改革」であることを付け加えておきたい。
そうでなければ私は応援する。
上の世代ができること。
それは、ただただ、「邪魔をしないこと」なのだから。